アクエリのほほんブログGX

アクエリのほほんブログが進化しました(笑) 超絶不定期更新

精神的に向上心のない者は

あなたの一番仲の良い友達を思い浮かべてください。その人をAとします。

次に、別の友達BがAの悪口をあなたに言って聞かせて、けちょんけちょんに貶したとします。

あなたはBのことをどう思いますか?

 

まぁ、普通にイラッとするし、ムカつきませんか?なにせAは一番仲の良い友達なんですから。

Bの言うことに一理くらいはあるかもしれませんが、それ以上にAの良いところや長所を知っているはずです。

自分なら普通にBとの縁切りそうです。(急に過激)

 

以上の件を念頭においてからこの先を読んでください。

 

前回の記事で、自分は自己評価が低いと書きました。

言い換えればネガティブということになるし、ある種の劣等感を抱えているということにもなると思うんですが、こういうこと結構友達に言ってしまうんです。

「いやいや、俺なんかがそんなんできるわけなくない?」

「うっわ、こんなん絶対無理、、死にてぇ〜〜」

誰かと付き合うにしても、相手の気持ちについていけなくなった時点で申し訳なくなって別れたくなります。

「俺はしょせん恋愛に向いてない人間なのよねぇ」

うまく伝わるような例文が書けていない気がしますが…ともかく、仲が良い友達には「自己評価低いキャラ」がほんのり浸透しているんです。

ただ先日、ある友達にこう言われました。

「そういう風に考えるのやめな??」

「お前の良いところとか捻らなくても出てくる」

「お前がいつも言うようなこと、思ったことないから」

「俺の友達の悪口を言うな」

一番みてほしいのは最後です、最後。

 

冒頭の話を思い出してください。

「あなた」「A」「B」を今の話にあてはめてみます。

それぞれ「ある友達」「自分」「自分」となるんですよ、これ。

自己評価が低いと友達に嘆くことは、その友達を同時に不快にさせていた。

仲良くしてくれる友達は大切だ、とも前回の記事で書きましたが、何を言っているんだと。

大切にしていないじゃないかと。

 

「俺の友達の悪口を言うな」

本当にこんな発想自分にはなくて、嬉しさ半分申し訳なさ半分で普通に泣きそうになりました。

自分の欠点というか、マイナスポイントを自慢したり誇ったりすることって本当に無意味だと強く感じましたし、反省しました。

 

誰になんと言われても、人間性の根っこの部分ってなかなか変わらないと思うんです。

今後も自分は卑屈な人間であり続けると思います。

でも、それでも、友達には恵まれすぎた人生だと胸を張って言いたい。

だから、やっぱり他人は捨てられない。

他人のために生きていたい。

お前が友達で良かったと言われるようでありたい。

そのためには、しっかりと自分を確立した人間でいないといけない。

 

ここ数年考えていたことの答えの1つが出た気がしました。

優しくなりたい

もう2ヶ月ほど前の話になりますが、私、アクエリは20になりました。

正真正銘成人になってしまいました。

DSi版メモ帳が終わって6年が経ちました。

Twitterを始めて昨日7年が経ちました。

このブログは……前身を含めて何年になるんでしょうか笑

よく時の流れは早いとはいいますが、ネット上で自分のスペースを確保し堅持しはじめてもうそんなに経つのかと思うと少し驚きです。

といっても、古い方の記憶からどんどん色褪せて霞んでいくように感じます。

中学卒業から5年、高校卒業から2年も経てば当然といえばそうなんですが…

これ、全然冒頭の挨拶になってないな笑

 

以前、どこかの記事で「他者との繋がりがないと自分は自己を確立できない」などと書いた記憶があります。

最近考えているのはその部分で、今回整理したいテーマです。

基本的に、自己評価低いんですよ、自分。

例えば友達と仲良く遊ぶにしたって、こんな自分とこんなに楽しく遊んでもらっちゃって悪いなぁ…とかたまに思います。

だから、良くしてくれる友達はすごく大切で、彼らの成功は自分のことのように嬉しいし、失敗は自分のことのように悔しい。

恋愛が絡み、一枚自分が噛んでいたならその感情は増幅します。その最たる例がサトシとモモコです。

人が幸せならそれでいいし、そこに自分が少しでも関わるのならなお良し。

そういう考えでこれまで生きてきたのに、最近はそうでもなくなってきました。

他人の幸せで十分満足してきたのに、それはそれでなぁと思うようになりました。

理由はよく分かりません。漠然としています。

ただ、これまで他人志向で生きてきた人間がここにきて「自分」を持ちたいと思うようになったのならば、それってとんでもない成長だと思うのです。

しかし、こいつがそんな成長するわけないだろ自惚れるな、と自己評価の低い自分がすぐに否定してきます。

つまり主観と客観が自分の中で葛藤を引き起こしているわけですが…本当に我ながらめんどくさい人間だと感じます。

 

自己評価が低いということは、ただひたすらにネガティブ、と言い換えることもできると思います。

そりゃ幸せになんてなれやしないよなぁ…

Del

13日の日曜日に成人式がありました。

いや行きたくねぇよ、と。

行きたくない理由

その1 別に会いたい人なんていない。そもそも仲良い人とは今でも連絡するし会うし

その2 中学の怖い人たちと関わりたくない

その3 別に大して中学に思い入れがない

高校を卒業する辺りから常々思っていたのですが、まぁ節目ではありますし、一応参加してきました。

 

前日の土曜日には高3のクラス会が成人式に合わせてありました。

中学と一転して高校はものすごく楽しかったし、会いたい人がたくさんいたので参加しました。

明日は虚無。

友達がそういったときはとても賛同。

お母さんのために出席するし、おばあちゃんに振袖みせるためだけに7時から着付けする。

と、ある女友達は言います。

正直中学の友達ってしゃーなしで付き合ってなかった??

この日一番首を縦にふりました。

思い返してみると、中学のときに友達なんてほぼいなかった。だからこそ思い入れがないんだ。

すぐに結論が出ました。

まぁぼっちだけど、自分も親のために行くしかないかなと諦めて土曜日は寝ました。

 

式当日、会場に着いてまず最初に会ったのが昨日会ったばかりの友達の面々。

彼らと動いて式が一通り終わり、ああ別に来なくても良かったなと思いました。

昨日のクラス会だけで十分楽しかったなと思いました。

このまま中学の知り合いに会わずに(見つからずに)帰ってしまおうと思いました。

すると、後ろから自分を呼ぶ声が。

振り返るとそこには知ってる顔ぶれのグループ。

そう、案の定中学の知り合いに見つかってしまった訳です。

前髪を遊ばせている人、耳にピアスをしている人、茶髪になった人、とても身長が伸びた人、声がさらに低くなった人、何にも変わっていない人……

以前との違いがすぐに分かって、名前が出ました。

5年程のブランクを感じさせないくらい楽しく話して笑いました。

行く気もなかった同窓会にも参加しました。

話しすぎて、笑いすぎて、喉を痛めて帰りました。

 

あれ?普通に友達いるんじゃん。

ここまで読んだ方はこう思ったかもしれません。

自分もそう思いました。

あれだけ行きたくなかったのに。

虚無だったのに。

親のために行ったのに。

しゃーなしの付き合いのはずだったのに。

なのに、めちゃくちゃ楽しかったんですよ、成人式。

 

どうしてか。

多分、忘れていたんだと思うんです。

「彼らと仲が良かったことを」忘れていたんです。

5年、たった5年会わなかっただけで。

なぜか。

高校は楽しかったとこれまでに書きました。

大学もだいぶ楽しく過ごせています。

つまり、楽しかった記憶で楽しかった記憶が上書きされてるんじゃないか、そう考えました。

特別覚えているわけではないけれど、中学は中学で楽しかったんじゃないか、と思いました。

ただ友達と話して過ごしていた何気ない日常こそが自分の中学校生活の本質だったんだ、と大げさながらも思いました。

大きなことが何もなかったからこそ、忘れていたんじゃないでしょうか。

 

記憶力には昔から自信がありまして。

世界史を始めとした社会等のいわゆる暗記科目はおおむね好きです。

他人が覚えていないような、どうでもいいことまで覚えています。

失敗は流しきれず、ほとんど全て抱き込みます。

でもやっぱり、仲が良かったことは5年で忘れていました。

 

人間の記憶って、適当で曖昧なものですねぇ…

 

 

疾風

人に知られると恥ずかしく、自分自身も思い返してみると死にたくなり、封印して掘り起こしたくないものって何だか分かりますか?

 

黒歴史です。

ネットの世界で長いこと生きていれば誰しもが持っていると思います。

自分としては、やはり某メモ帳時代は完全に黒です。

リアルの世界でももちろんあります。

メンヘラに絡まれた高3の数ヶ月はたった2年前の話ですが、黒です。

 

自分のしてきた行動とはいえ、なぜあのようなことをしてしまったのか。

その時々では最善の行動をしていても(しているつもりでも)、後から見れば最悪の行動をしてしまっていた。

人は過去の行動に責任を持ちますが、これから先、未来の行動には微妙に持てないと思うのです。

 

とまぁ、ここまで黒歴史について書きましたが、少し話は変わって。

 

みなさんは自分の生み出した物を見返すのは好きですか。

絵や小説、漫画。ポエム、動画に音楽、歌、ダンス、はたまたツイートでも。何でもいいです。

自分の場合、このブログ記事、ツイキャスnana(歌)の3つとツイートになりますか。

自分はわりと好きです。

特にこのブログを見返すことが一番多い気がします。

ああ、あのときこういう経験をしたからこう考えて、こう表現してるんだな、と認識できるので。

認識してどうなるのか。基本どうもなりません。自己満足もすれば自己嫌悪もします。

でもたまに。

あのときこうしていればこう考えることもなかったんじゃないか。

こう考えているけれど、それはおかしい。

本当にその通り、この考えも付け足したい。

などと思うわけです。

読み返しで得たいのは、書いた当時には思わなかった、未来からの意見なのです。

 

冒頭に繋がるような繋がらないような。

なんだか大層なことを書いてしまいました。

 

ブログの話なので、少しばかり過去の記事を振り返ろうと思います。

前回の「おとぎばなし」は本当に自分らしい、良質な、気持ち悪い記事が書けたと我ながら思っています。全記事で一番の仕上がりといってもいいです。ここにはアクエリという人間が表れすぎています。

「アイスミルクコーヒー」はただのクソポエム(?)なんですが、「おとぎばなし」とだいぶセットになってます。そんなに日を置かないで更新したので気づいた方もいるかもしれませんね。

「liebe Zeit」…ドイツ語で直訳すると「愛しい時間」という意味です。記事のタイトルはその記事の内容を踏まえて、毎度一応考えてつけているんですがこれは安直。内容も微妙でタイトルも気に入らない記事です。

「40人の盗賊」はどうしてわざわざ記事にしたのか謎です。ほぼほぼ伝聞の話なんですが、書いたときは面白いと思ったんでしょう。タイトルを考える、と先ほど書きましたが、基本的に記事中の文や単語から連想ゲームをしています。元にした単語は「おとぎばなし」が一番分かりやすいとは思います。今回記事も比較的。

コロンブスのたまご」では後述の4記事と"憂鬱であった"大学生活についてまとめてあります。書いてあることは他記事に比べるとわりとシンプルなんですが、タイトル共に結構気に入っています。

「いつも、いつでも、」「氷山の一角」の2つは読み返すとほぼ必ず自己嫌悪します。プラスに感情が流石に動きません。ある種、これらの記事は自戒です。高校時代の親友の話がまとめてあります。「氷山の一角」はうまく語彙がチョイスでき、良い出来だと思います。

「愛故に」「凝結」は上2つの記事の間に書かれたもので、少し連動したような内容になっています。「凝結」で扱ったテーマは良かったんですが、伝えたいことが不明瞭なので気に入らないです。

 

ブログを見返すのが好き、と書きました。

書きましたが、ある一定の時期より前の記事は読み返したくありません。

なぜなら。

黒歴史、だからです笑

未来の意見を求めるより、恥です、恥。

どこかの記事で「これそのうち黒歴史になるんだろうな」と書いてありましたが、全くその通り!本当に勘弁してくれ!!

 

…なんとか冒頭に繋がりました。

今回はだいぶ長めの記事となってしまいましたが、書いていて楽しかったです。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

興味があれば、上に挙げた記事は今のところセーフなので読んでみてくださいね。

おとぎばなし

実家を離れて大学生活を送る自分ですが、長期休みには帰省して地元の友人と遊びます。

気心知れた彼らと映画やカラオケに行ったり、食事をしたりします。

ものすごく楽しく思う一方で、一人で自転車をこいだりなんかして家に帰っていると、ものすごく悲しくなったりします。

どうしてだろう、と考えてみました。

恐らく、またもうしばらく会えないから。

 

また明日!と別れていた彼らの、知らない情報が多すぎてなんだか悔しさすら感じてしまうのです。

お互い、貴重な休みの1日を割くわけですから、当然仲が良い。休みに入る前でも連絡は取っていた。

それなのに。

最近ガルパにハマっていること

1週間北海道に旅行したこと

9月からニューヨークに留学すること

サックス吹きの彼女ができたこと

会って話すまで知らなかった。

友人の交遊関係や身を置く環境の全てを知ろうだなんて思いませんが、ほんの少しだけ、「知らないこと」がショックでした。

身を置く環境が一緒で、ほぼ毎日会っていれば、少なくとも最近のマイブームくらいは分かっていたんじゃないでしょうか。

 

しかし、自分の場合はどうなのか。

ガルパのライビュに行ったこと

岐阜、東京へ旅行したこと

ドイツ語を使って人の前に立つこと

よさこいサークルの彼女ができたこと

いちいち彼らに話していませんでした。

共有された環境が違えば、どれだけ仲が良くても、案外そんなものなのかもしれません。

もし仮にメモ帳時代からの知り合いが結婚します、と報告してきてもあまり驚くことでもないのかもしれません。

……嘘です、さすがにそれは100%驚きます笑

 

彼らと話したいこと、彼らに話したいことがたくさんあったはずなのに、実際会うとすぐ忘れてしまいます。

その瞬間が楽しいというのはありますが、知らない情報をもっともっと引き出したくなるから。

引き出しきれずに最後には、じゃあ……また今度遊ぼうね。

そう言って微笑んで別れるしかないのです。

また明日にはもう会えないのです。

彼女ができた、そう言えば彼らは「知らなかったショック」を受ける…いや、受けてくれるんでしょうか。

これ、書いてるたった今思ったんですが……重くないか、、?これ半分メンヘラじゃねぇ??

人付き合いにあまり向いてない気がしてきた、まだギリギリ未成年のアクエリでした。

アイスミルクコーヒー

素敵な恋をしていたんだね

私の知らない環境で

私の知らない素敵な人と

素敵な恋をしてきたんだね

 

あなたの中の私と私

私の中のあなたとあなた

リアルとどれだけ違うだろう?

姿、大きさ、イメージカラー

リアルといったいどれだけ同じ?

 

誰かのために何かして

嬉しくなって大笑い

悲しくなって大号泣

それは結局誰のため?

それはやっぱり自己満足?

 

いつもいつでも他人のため

無駄な節介、余計なお世話

空を飛べない雛鳥は

いつまでたっても巣立てない

 

素敵な恋をするんだね

私の知らない環境で

私の知らない素敵な人と

素敵な恋をしていくんだね

40人の盗賊

欧米に留学すると日本人が少したじろいでしまうのがコミュニケーションだそうです。

語学力で苦労するという点では間違いないでしょうが、そうではなく。

どうやら向こうの人は目を見て話をするそうです。

日本人は目を見ないで話すという訳ではもちろんないですが、ずっと見られることに困惑してしまうとか。

 

目を見て話すのが得意とか苦手とかではなく、どうも僕らは目を見ないで話すのが好きなんだとは思いませんか。

少なくとも自分は電車やバスの席で横並びに座って喋るのが好きだし、喫茶店でアイスコーヒーの氷をいじりながら喋るのが好きです。

自分と相手との視覚…みている景色やモノを共有したがるのが日本人の特徴のような気がします。

TwitterInstagramがウケるのもこの辺りが関係しているのかなとも思ったり。